舘石先生の訃報で いろいろ考えたこと NO2
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あの時の自分は こんなことを考えていたんだな。。。って
記録の為に 書いてます。。
今日は カメラの移り変わり
私が始めて手にしたカメラは
ニコンの ニコノス5
最初はお金がなくって 28mmレンズだったけど
「絶対にいつかは15mm買うぞ~!!」って張り切ってました
今はなき 「銀座タートル商会」限定の
ピンクのニコノスは
今でも手放せず 持っています
あと 併用して Canon EOS と ハウジングを持ち
こちらも ワイドレンズから マクロまで レンズを揃えましたねェ
今はデジカメと言う手軽なカメラになってしまいましたが
あの頃は 36枚撮りのフィルムだったので
1ダイブでの 写真撮影は それはそれは大きな
思いを 乗せてました
まあ私はプロカメラマンではないので
たいした事は 言えませんが。。。。。
それでも 現像が出来上がるまで
ドッキン ドッキンして
出来上がると 自分で マウントして
大切な 子供のように 保管しています
デジカメだったら 水中で確認して
ポイ できるし
100枚でも 200枚でも 撮影できる
一回のシャッターを押すのも
今では とっても 気軽だよね?
フィルムは コダック派だったり フジ派だったり
私もおたくさんのように フィルム売り場に入り浸ってたことも
ありました
こんな 今 水中写真がメジャーになったのも
やっぱり 舘石先生の おかげですよねェ、、、、、
そうそう 想い出話しですが
オルベリに取材にいらしとき
mediumで流れてる カンドウーマティラに行きました
メインガイド がいて
私は 後ろについたんだけど
かなり水面は流れてて
マイナス浮力エントリーして そのまま頭から潜降。。。。
2,3秒遅いと もう 潮当たりのいいところから
はずれてしまう
そんなところで 舘石先生は ニコノスRSと言う
大きなカメラを持って飛び込みそのままエントリー
そして editorのHちゃん カメラアシスタントの子がエントリー
一番潮当たりのいいところからちょっとずれてしまい
against currentで 水中を泳いでいたら
もうガイドと舘石先生の姿は見えず。。。。
そしてわたしより 前にエントリーしたアシスタントちゃんが
岩にしがみついてて 大変そう。。。。
もう このままではアシスタントちゃんが可哀想だし
私は 浮上しよう。。。。って判断して
3人で 浮上
その後 ガイドと舘石先生は戻ってこなくて
ちょっと私は冷や汗もの
ま ま 万が一ってことになったら
どうする
オルベリの取材中の事故?!??ってなったら
どうしよう??????????????
世界の舘石先生が ここで。。。。。。
いろんな事が 頭をよぎりながら 待っていると
ガイドと舘石先生が 水面に
無事だった
その時 72歳だった 舘石先生
周りの人は 「はりきっちゃったんだよ!!」って言ってたけど
張り切ったからと言って 簡単にできる事ではない
あの流れに 逆らって 泳ぐってことは
並大抵の 「かっこつけちゃん」じゃあ できないのだ
現に アシスタントちゃんは 先生が前にいるってのに
行けなかったではないか。。。。
やっぱり プロだ!
凄い!! って 私は思った
私達のルーツだ!
私よりも ずっとずっと昔からモルディブの海を潜ってて
流れだって慣れてる!!
ホントは ヨスジフエダイの群れを見せたかったのに
何故か ごまもんがら 撮影で 時間が過ぎてしまった
でもね やっぱり 凄い人だったんだよ
積み重ねてきた歴史は ダイビング業界の常に中心でいたと思うし
たぶん 本当に海とか水中生物がお好きだったんだなあ!!!って
思う。。。
デジカメが出来て みんなが手軽に水中で写真を撮るようになり
海の中が 荒らされることも 多くなった
でも 手軽すぎて 私は水中写真のデーターも
愛着がなくなっていた
今でもスライドは こんなに大切にしてるのに
スライドを見ながら その時のダイビングの事だって
全部想い出せる
でも デジカメのデーターは
ただの 記録でしか なくなってしまった
デジカメの普及が いいとか 悪いとかではない
でも やっぱり 水中写真の歴史も
めまぐるしく 変わってきたんだね
それでも 私は そのすべての原点は
舘石先生だと 思ってる
当たり前のように 存在した
ダイビング雑誌
いろいろ言う人も いたけど
私は やっぱり 「海と島の旅」や「マリンダイビング」に
お世話になった
今日はカメラのこと ちょっと考えたので
明日は。。。。。。。。。
ネット社会と ダイビング雑誌について
考えるね!!
私の 勝手な考えですので
お許しを!!