えいこのモルディブここだけの話&どうでもいい話

モルディブの海に魅せられてインストラクターとしての経験をそのままブログにしました。また趣味の食べ歩きや旅行、ライブの話もちょこっと。

氷室京介が見せたボーカリストとしての壮絶なる美学 ソロ25周年ツアー最終公演によせて

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俺なりに、最後に無様な生き様を見せようと思ってしっかりやってたけど、この演出には勝てねぇや。もう何百回も歌ってきたけど、最高の、命懸けのANGELを贈りたいなと……思います!」

 活動休止を発表し、最後のつもりで臨んだライブ。前日のリハーサル時に不慮の転倒で骨折してしまった己の無様さ、悪天候・落雷により中断したこと、そんな境遇に見舞われたことを、自嘲めいた言葉ながらもどこか嬉しそうにも見える表情で語る。氷室京介ソロ25周年を飾る全国38都市50公演のツアーファイナル『KYOSUKE HIMURO 25th Anniversary TOUR GREATEST ANTHOLOGY -NAKED- FINAL DESTINATION』はどしゃぶりの中、デビュー曲「ANGEL」で2万5千の大合唱と共に幕を閉じた。デビュー26年目を迎える前日の2014年7月20日、横浜スタジアムは孤高のカリスマボーカリストの25年のファイナルに飾るに相応しい夜となった。



・雷鳴と閃光に包まれた伝説の夜

 ダーティーなロックナンバー「WARRIORS」でライブは幕を開けた。Yukihide YT Takiyamaの重心低めのギターが冴え、GLAYのTAKURO作詞による「PARACHUTE」へと続く。グラマラスでアメリカンロックテイストなナンバー、ギラギラとしたギターサウンドと色気ある氷室の声との相性は抜群だ。「CALLING」で魅せる壮大な本田毅の多彩なギターサウンドとの対比も美しい。

 「ベースの西山くんが……」そう紹介されたのは最新シングル「ONE LIFE」のカップリング曲「眠りこむ前に」。西山の在籍したバンド、KNiFeのカバー曲である。元々、西山史晃は氷室とともにバンドブームを牽引した同郷群馬のバンド、ROGUEのベーシストだ。1991年の『OVERSOUL MATRIX』ツアー以降、23年に渡り氷室のボトムを支えてきた。誰よりも氷室と同じステージに立ち、氷室の背中を見てきたのである。今ここで、西山の曲をカバーしたことはそうした二人の関係を考えると感慨深い。

 震災後に歌詞を書き直した「IF YOU WANT」を歌い上げた直後、ステージから左手後方、一塁側スタンドの上空に大きな花火が上がる。スタジアムから少し離れた横浜港にて行われていた花火大会のものだ。ツアーファイナルを祝福するかのように見えた花火も、終盤に差しかかる頃には稲光に変わって行く。うごめく暗雲と閃光を受け、会場の熱気と共に加速していくライブは「WILD ROMANCE」で本編が終了した。降り始めた雨の中、アンコールの「NORTH OF EDEN」が始まると、雨足はさらに強くなり、明らかに雷鳴が近づいてくるのが解る。照明と稲光、鬼気迫る氷室の歌と轟く雷鳴が折り重なり、ビルに囲まれた野外球場は、まさに“都会の曠野で”稲妻が“孤独を撃ち抜く”、異次元空間だった。そして「The Sun Also Rises」。〈ずっとそばにいたいけど ここから先はひとり〉自分のことをファンヘ示唆するメッセージとも取れる詞を、しっとりと歌う氷室を妨げるかのごとく咆哮する雷鳴。そしてついに地響きが起きた。会場のほど近くに落雷した。

 安全を危惧して観客はコンコースに避難。40分ほど中断した後、ステージ上に現れた氷室は何とも言えない表情を見せていた。前日の19日には活動休止の理由を耳の不調によるものだと明かしている。本来なら最終日だからこそ用意していた言葉があったのかもしれない。だが、日本の音楽シーンに大きな爪痕を残した男の最後を、天はただでは終わらせようとはしなかった。そんな自分の運命への覚悟と、どしゃ降りの悪天候の中、中断しても帰らずに待っていてくれたファンに感謝する気持ち、悔しげながらもどこか笑顔に見えたのはそうした様々な想いもあったように思えた。最後に贈られた“命懸けのANGEL”は紛れもなく25年の中で最高だったのは言うまでもあるまい。

・ボーカリスト兼クリエイターとしての氷室

 ソロ活動を開始してからも“ソロアーティスト”というより“ボーカリスト”という言葉のほうがしっくり来る。本田毅も絶賛するほどのギターの腕前を持ちながら、ギターを下げてステージに立つことはない。アコースティックギターで弾き語りをすることあったが、それも数えるほどしかない。徹底的にハンドマイク1本にこだわったボーカリスト・ヒムロック美学である。マイクと口の距離感のコントロールは神業と言えるだろう。右手にマイクを持ち、口角に対して直角に構える、グリルボール部をしっかりと握り、小指だけ柄の下から支える。今となっては当たり前のように多くのボーカリストがやっているが、「氷室持ち」と言われたこのスタイルをみんながこぞって真似したのだ。そして、カスタムIEM(カスタム・イン・イヤー・モニター、通称:イヤモニ)をいち早く、本格的に使用した日本人アーティストでもある。

 そんなボーカリストとしての印象の強い氷室であるが、自身はクリエイターとしての制作活動に重きを置いている。日本にいると周りの人間が全てをやってくれることを嫌い、制作の拠点として1994年にロサンゼルスへと移り住んだ。マイケル・ランドウ(ギタリスト)などの凄腕ミュージシャンや著名エンジニアに自ら直接オファーを出している。2011年のワーナーミュージックへの移籍は、グリーン・デイやアヴリル・ラヴィーンなどを手掛けた、ワーナー会長兼プロデューサーのロブ・カヴァロ氏との出会いに端を発している。2009年にマイ・ケミカル・ロマンスのボーカル、ジェラルド・ウェイと氷室がコラボレーションしたシングル『Safe And Sound』をロブ氏が聴いたことで氷室に興味を抱いたのだった。

 代表曲の一つ、「魂を抱いてくれ」は事務所の独立、渡米、レコード会社の移籍第一弾だった。はっぴぃえんどのドラマーで、原田真二や太田裕美などの作詞でも知られる松本隆によるもの。それまでの横文字を多用したニヒルな詞とは正反対の男臭い世界観と、真っ白い衣装と砂漠の中で歌う明るめのミュージックビデオは、今までイメージを覆して話題になった。20日のライブでは、当時のエピソードが話された。ちょうど3人目の子供が出来たときの楽曲だったということ、歌入れが難航してエンジニアと揉めたこと、レコーディング現場に初めて妻、“かみさん”を連れて行ったこと。納得が行かず何日もかけて歌い直す氷室に「最初に歌ったテイクが一番良かった」とかみさんに言われ、「素人にはそう聴こえたのかもしれないけど…」そうつぶやく氷室の姿が印象的だった。「かみさんが~」と呼ぶ氷室は硬派でストイックなイメージとは不釣合いにも思えるが、多くのインタビューでも最大の理解者として照れることなく紹介している。ツアーに帯同し、夫婦揃って会場入りというのもファンにはお馴染みの光景だ。現在は事務所副社長を務めている。独立、渡米という挑戦を陰ながら支えてくれたのは家族の存在だったであろう。

・「このリベンジをどっかで必ず」

 ファンにとって氷室の活動休止は、近年の言動から「いつかこういう日が来るだろう」と覚悟していたことだった。ただそれはあまりにも唐突過ぎた。13日の突然の発表から一週間しか経っていない。19、20日のライブが最後になってしまうのか、本当にラストライブは行なわれるのか。ライブを辞めるのか、音楽活動自体を辞めてしまうのか。オフィシャルからの発表はあったもの、本人の言葉はなく、曖昧な情報に様々な憶測と不安が過る一週間だった。

「今日は本当に申し訳ない。プロとして、怪我をしていてこれ以上出来ないけど、このリベンジをどっかで必ず。その時は、もし本当に、こんな情けない人間をもう一回支えてくれる連中が集まってくれたら、いいなと、思います」

 その言葉を最後に氷室はステージを去った。袖ではスタッフに抱えられてフラフラだった。アーティストは怪我で本調子ではない、悪天候、そして中断。普通に考えればライブ興行としては最悪だ。だが、この日の氷室京介の姿を見届けたファンは、氷室への感謝と賛美の気持ちを胸に、この上ない満足感に包まれて帰路についたことは改めて説明するまでもないだろう。